陰陽論から読み解く太極の本質【陰陽論①】

太極拳

太極論(陰陽論)

まず

太極とは、

「存在する全てのものは相互に関係しあっているという考え方」で、

その中で

「完全に調和のとれた状態」

「全てのバランスが取れている状態」

を指します。

陰陽論4つの要素

陰陽論には大きく分けて以下の4つの要素があります。

対立
互根
消長
転化

要は自然ってこんな働きがあるよね、あんな働きもあるよねっていうのを、4つに分けたものです。

もっと細かく要素を分けて説明されているものもありますが、

出来るだけシンプルにするために今回は代表的な4つに分ける方法で説明しようと思います。

今回はその中の「対立」、「互根」について書きたいと思います。

ちなみに「対立」も「互根」も中国語です。

日本語としても読めますが、ニュアンスが若干異なります。

「対立」とは、上と下、昼と夜、男と女のように如何なるものも相反するものが存在するという考え方です。

日本語で「対立」と書くとお互いに競争していたり、戦っているイメージが強いですが、当然「昼」と「夜」が戦ったりはしません。

この「対立」というのは「異なったものが対になって立っている」という文字通りの意味です。

日本語で対立と書くと若干の語弊があるのでここでは「相対」と意訳します。

「互根」とは、全ては上記のように相反するものがあって初めて存在できるという依存関係にあるという考え方です。

よってここでは、この「対立」と「互根」をまとめて「相対依存」と呼ぶことにします。

陰陽論の相対依存とは

陰陽論では、この二つの「陰」と「陽」という二つの相反するものが存在して、

しかもそれは、それぞれバラバラに存在している訳ではなく、陰があって初めて陽があり、陽があって初めて陰があるという依存関係を示しています。

「相対依存」の考え方はこのように非常に簡単です。

しかし問題はこの考え方を理解したところで、如何に太極を理解するかということです。

冒頭に書いたように、太極とは

”完全に調和のとれた状態”

を指します。

この”完全に調和のとれた状態”とはどのようにしたら分かるのでしょうか?

例えば、料理の際に、ちょうど良い塩加減にしたい時。

塩を入れ過ぎれば、しょっぱくなります、

しかし、塩の量が少なすぎれば、味が薄くて味気がありません。

この両方の状態を知っていると、ちょうど良い

”塩梅”

が分かります。

要するにちょうど良い状態を知りたければ、ちょうど良くない状態が分かればよいのです。

”陰”と”陽”の両方が分かれば、”太極”が分かります。

このように理屈は非常に簡単ですが、ちょうど良い塩梅にするというのは、

料理をしたことのある人なら誰でも分かる通り、それほど簡単ではありません。

何故簡単ではないかというと、

ちょうど良い塩梅というのは、

塩加減が意識されないからです。

しょっぱければ、塩気が多いなと意識されます。

逆に、塩気が少なければ薄いなと意識されます。

ちょうど良い時は、塩気は意識されません。

多いとも、少ないとも意識されないからちょうど良いのです。

このように”ちょうど良い状態”というのは、

あまりに自然で意識されることがありません

故に、初めから何も感じない、意識されない、という太極を目指すのは難しく、

まずはその反対にある、不自然を沢山知っている必要があります。

太極拳というのは、拳(武術)を通して太極を理解します。

よく太極拳では肩の力を抜くことを強調されます。

では肩の力が抜けたちょうどよい状態というのはどうすれば分かるでしょうか?

そう、肩の力が入った状態と抜け過ぎた状態を知ることが分かれば、ちょうどよい状態が分かります。

逆に力が入った状態や抜け過ぎた状態が認識できなければ、ちょうどよい状態も認識できません。

なので、練習では肩に力を入れる練習もやってみます。

そしてその状態で相手を推し引きするとどうなるのかを検証します。

そして今度は、肩の力を抜いてみて、相手を推し引きしてみるとどうなるかを検証します。

そうすれば、どちらの方が効率的なのかは明白です。

肩の力をガチガチに入れた状態で推してみると、なかなか相手が崩れないし、体力も大きく消耗します。

でも肩の力を抜いて推してみると、先ほどよりも簡単に推すことができます。

このように、力を入れ過ぎた状態、抜け過ぎた状態が相手に効果がないことをきちんと認識することによって

ちょうど良い力加減が分かってきます。

このように力加減も、ちょうど良い加減とちょうど良くない加減の両方がセットになっています。

余計な力を入れるということは、ちょうど良い状態に至るために絶対不可欠なものです。

太極拳の練習ではそれは必ずセットで、無駄な練習というのはありません。

このように太極を目指すのであれば、否定しないことや、何事も受け入れるという姿勢が大事です。

例えば、自分と意見の違う人がいると、それぞれがバラバラに存在していて相容れないように見えます。

「あいつと俺は考え方が違うから、関係がない」となります。

しかし実は自分と違う意見があって初めて自分の意見が成り立つのだと理解できれば、違う意見の人も尊重することができます。

ただ理屈が理解できたからといって、生理的に受けつけないこともあると思います。

それは自然な反応で、理性的に排除できるものではありません。

だから太極拳では、理屈を押し付けて頭で理解させるのではなく、

受け入れると上手くいくことを身体の実感を通して覚えていきます。

それは、先に書いたような対人練習を通して行っていくのですが、

相手を排除しようとするのと、相手を受け入れようとするのでは、どちらが効率的なのかを交互に練習する事によって、どちらが自分にとって好ましいのかをはっきりしていきます。

そうすれば、知らず知らずのうちに自然にそれを選択するようになります。

人によっては排除する事を選択し続ける人もいます。

それは別に悪いことではありません。

排除する事をよく知ることによって、受け入れることの理解も深まります。

それはあくまでもその人の選択であって、どちらが良い訳でも悪い訳でもありません。

相対するものを受け入れて初めてバラバラな”陰”と”陽”が一つになるわけですが、

排除することなしに受け入れることは分かりません。

これが相対依存です。

ただ身体で感じた実感というのは正直なので、交互に比べると受け入れることを選択した方が好ましいと感じる人は多いように思ってます。

身体を通して理解できるというのは、太極拳の大きなメリットの一つだと思います。

そしてこの受け入れた時の”実感”というのが、まさに太極の一側面です。

太極という実感

例えば、子供は誰かとケンカしてもすぐに謝ってまたすぐ仲良く遊びます。

しかし、年を重ねるにつれ仲直りに時間がかかるようになります。

このように「排除」している時間が長いとどんな気持ちになるでしょうか?

そこに大きな喜びを感じる人は多くないと思います。

しかし、仲直りして、また一緒に楽しめたらどんな気持ちでしょう?

”許すこと”や”相手を受け入れる”ということは、

温もりや安心感、自由などを感じます。

先ほどの太極拳の例でも同じで、

相手を完全に受けれて行った時は、はっきりと相手との一体感が感じられます。

そしてその状態で相手に技をかけていくと、非常に軽く、自分は何もしていないような自然な感じがします。

しかも技をかけられた相手も、あまりに自然なので、何かされたという感覚がなく、技をかけられても違和感や嫌悪感を感じません。

太極にはいつもこういった共通した感覚があります。

時には、開放感であり、自由であり、軽やかさであり、嬉しさであり、一体感であり、感動であり、それは魂が喜んでいるような感覚です。

太極という自然で調和のとれた状態というのは、このように様々な感覚があり、

一つの決まった状態ではなく、無限に変化する多様性があります。

これは「消長」、「転化」の内容ですが、

太極とは、ある決まった状態や固定された状態ではありません。

太極とは、常に流動的で、常に変化しており、決まった状態を持ちません。

相対から絶対へ

そして、相対依存を理解した上で、太極の理解をもう一歩進めていきます。

相対依存を理解して太極に至るというのは、言い換えれば、

相対から絶対への道です。

もちろんこの「相対」と「絶対」というのも二つで一つです。

例えば、机の上に500ccのペットボトルが1本だけあったとして、
他には何も置いてません。

そこで質問です。

この500ccのペットボトルは、

大きいでしょうか?

それとも

小さいでしょうか?

答えは、

どちらでもありません。

もし隣に1000ccのペットボトルがあれば、それに比べて小さいですし、

もし隣に250㏄のペットボトルがあれば、それに比べて大きいです。

しかし500㏄のペットボトル自体に大きいか小さいかはありません。

これが相対依存です。

これはどんな事にも当てはまります。

特に物事の善悪は分かりやすいでしょう。

例えば戦争なんかは、勝てば大喜びする人たちがいますが、

敗戦国からすれば悲しいことです。

ではこの戦争は良かったのかそれとも悪かったのでしょうか?

それは、当然どの立場かによります。

全く同じ事象なのに一方では善、一方では悪です。

なので、それ自体の善悪はどちらでもないというのが正解です。

これが、相対依存です。

本来は、

それ自体に、大も小もありません。

善も悪もありません。

美しさも醜さもありません。

これは老子の”道”を現す言葉ですが、

この、本来どちらでもないという真理が、老子の云う”道”であり、”太極”であります。

そして相対から絶対というのは、

一言でいうと、

”比べない”

ということです。

もう少し詳しく言うなら、

”比べる”ことを通して、”比べない”に至る道です。

例えば、「健康」という言葉はどうでしょう?

以下は以前書いた「健康」についてのレポートです。

健康とはーWHOの定義を元に答えてみる
【健康とは】
WHOの健康の定義: 「健康とは、完全に、身体、精神、及び社会的によい(安寧な)状態である事を 意味し、単に病気でないとか、虚弱でないということではない」
出典元: 健康-Wikipedia
【考察】
WHOでは健康を、「身体」、「精神」、「社会的」が完全に良い状態と定義している。
では完全な「身体」とは何か?
例えば、血圧が140を超えて高血圧症と診断された時点で不健康か?
140から130になれば、健康か?
もしも、先天的に腕が一本なければ、それは不完全か?
また完全に「精神」が良い状態とは?
自分の常識では理解できない他人の行動に苛立ちを覚えたら、それは不完全であるか?
満員電車でストレスを感じたら、その精神状態は完全か不完全か?
そして完全な「社会的」に良い状態とは?
適齢期に結婚していなかったら?
子供が不登校だったら?
リストラにあったら?
それらは不健康なのか?
以上から明白なように、それぞれの完全不完全の境界線は明確な定義が出来るものではなく、
「その時代の常識による基準」、
「特定の組織での基準」、
「個人の基準」等
によって異なる。
よって、上記の基準を全て満たすのは、非常に困難であることは言うまでもない。
それでは一般的に考えられている健康とは?
それは、苦しみがない、もしくは苦しみが少ない状態のことを指すようだ。
主に身体に対する苦しみに使われることが多いようである。
例えば、風邪を引いた時のように、身体のどこかに不調を感じるところがあると、今はあまり健康ではないと感じる。
その不調が取り除かれ、苦しみが少なくなると、少し健康になった気になる。
また例えば、近所の人達がみな風邪を引いている。または同僚がみな風邪を引いているのに自分だけが風邪を引いていないと、自分は健康だと感じたりする。
大人に今健康かと聞くと、「まぁまぁ健康かな。」なんて返ってくる。要するに今現在はそんなに辛いところはないということだ。
逆に5歳児に「今健康ですか?」と聞いたら何と返ってくるだろうか?
きっと何を聞かれているのかよく分からないのではないだろうか?
それは、身体の不調を感じることが少ないから。また有っても回復が早いため、苦しい時間が短いから。また未来への不安が少ないから。
だから子供は健康になりたいと常日頃から考えたりはしない。
健康とは苦しみありきの言葉である。そして経験してきた苦しみによって、健康の定義は異なるのである。だから5歳と50歳では健康の意味合いが異なるのである。
恐らくほとんどの人が病気を経験する。だから年を重ねるにつれて、苦しんだ経験も多くなり健康への関心が高くなる。
子供には健康の事を聞いてもよく分からない。
でもそれが完全な健康というものである。
苦しみという比較対象がないため、健康の定義付けが出来ない状態なのである。
そして健康を危惧することがないのである。
健康かどうかというのは、あくまでも周囲との比較、過去の苦しみとの比較、そしてこの先経験するかもしれない未来の苦しみとの比較から計られる相対的な言葉である。
だから完全に健康な状態とは、過去や周りとの比較をする事もなく、また未来への不安が無い状態を指すのではないかと思う。
そして相対的比較をしなくなった場合、健康という言葉自体も無くなることになる。

仏教の言語道断とはまさにこのことで、
言語にした途端、”道”は断たれてしまいます。
「健康」という言語になった瞬間、それは真の「健康」ではなくなります。

以上のように何事も相対的に比較するのではなく、
その瞬間を純粋に生きていることが太極です。

これが相対から絶対という意味です。

以上が「相対依存」を理解して「太極」に至るということでした。

太極拳で幸せになる

このように見ていくとお分かりだと思いますが、

太極の理解に至る方法は無限にあって、当然太極拳だけがその方法ではありません。

むしろ、色々な経験をしないとそこに至りません。

以前武術の先生から、

「武術以外のことをきちんとやりなさい。そうしないと武術は分からない」

と言われました。

要するに、太極に至るためには一つのことだけをやっていても理解できないということです。

太極拳の達人とは、

誰かより強いとか、誰かより上手いということではありません。

本来強いも弱いも、上手いも下手もありません。

”武芸好不如性格好”
(武芸に秀でるは、性格が良いことには及ばない)

とは、陳式洪派太極拳創始者の洪均生先生の言葉ですが、

非常に端的に表した言葉だと思います。

太極拳の達人とは、

より多くのことを受け入れられる人、より瞬間を大事にする人だと思います。

価値観を外側に持つのではなく、

内側に持つということです。

太極無処不在(太極の無い処は無い)といわれるように、

太極(幸せや調和の取れた状態)というのは、常に自分と一緒に居て、いつでもそこに帰ることができます。

幸せはなるものではなく、気づくものである。

と言われるのと全く同じです。

太極とは、一部の人が特別な修練を通して後天的に”得る”ものではなく、

誰にでも備わっている感覚に”気づく”ことだと思っています。

太極とは、何気ない小さな幸せや、純粋な楽しさ、安らぎのようなものだと思っています。

年配の方になればなるほど、こういった事を自然にやっている方が多いと感じます。

うちの生徒さんにも年配の方がいますが、自分が教えられる事は何もないように感じます。

でも、身体を通して、武術を通して、そこに至る方法を新鮮に感じて下さる方もいるので、
恐縮ながら、提供させて頂いてます。

以上が陰陽論の「対立」と「互根」でした。

陰陽論、太極論を理解することは、太極拳の上達を助けるだけでなく、

あらゆる場面で役立つと実感しています。

そして人生を非常に豊かなものに変えてくれます。

自分が感じた感動を一人でも多くの人と共有できたら幸いです。

全ての人に幸あれ

陰陽論続きはこちら

太極拳の大前提【陰陽論②】

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